Truscott, John. 1996. The Case Against Grammar Correction in L2 Writing Classes. Language Learning, 46, 327-369.

ライティングのFBに関して、文法的な修正はabandonされるべきだと論じている有名な論文。よく引用されている。この主張を論じる理由としては、1実証研究が文法修正には効果がないと示している、2修正の性質と言語習得の性質を考慮すれば、1で示されているように文法修正に効果がないのは当然のことである、3文法修正にはharmfulな効果がある、4文法修正を続けるように提案している研究は、メリットを欠いている、の四点が挙げられている。
文法修正に関する実証研究について:まずはL1ライティングの研究例を紹介し、それらは「文法的修正は学習者のライティング能力に何ら影響を与えなかった」とまとめている。L2に関しても同様に、文法的な修正が学習者のライティング能力の向上には結びつかないと結論づける研究を多数紹介している。p336の下から4行目、Last…に、なぜ文法修正が効果的でないかの理由の一つとして、教師の与える文法修正が学習者の発達段階developmental sequence(自然に言語を習得する順序)を考慮していないからではないかと書かれている。つまり、timingが悪い、「教師は学習者がnot readyな文法事項を修正してしまっている」と。が、しかし、タイミングがよかったら効果的かというと、それを証明するデータもまたないわけで、可能性はあくまでもhypotheticalである(この点に関しては、p.344から詳細を述べている)。次に(p338から)、「文法修正は効果がある」とする論文と、それが持つ「穴(欠陥)」を紹介している。
p341後半からは、「なぜ文法修正が効果的に作用できないのか」が論じられている。教師は、目標言語を学習者に教えるにあたり、単に情報を伝達すればいいだけ、と思ってしまいがちで、それにより、つい文法修正などを従ってしまう。でも、言語習得の複雑さは種種の研究で明らかになっており、その複雑さを考えると、文法修正はやはり効果的に働かないだろう。Long 1977, 1991の示すとおり、言語習得の過程というのは長いgradualなプロセスであり、「ここのコレ、用法間違っているよ」と教師が修正したところで次に学習者が同じ過ちを犯すことがない、なーんて単純なもんじゃない。つまり、教師がintuitiveに文法修正するのは、教師が誤った学習観を持っているからである。文法修正というのは、所詮は表面的な誤りを指摘しているだけで、その根幹にあるsystem developmentの問題を無視しているのである。
p.344からは、先ほどのdevelopmental sequenceの話に戻る。教師は学習者の現段階でのレベルに合せた文法修正を行えばいいんだろうけど、クラスではそうはいかない。developmental sequenceだって、ちゃんとは解明できていない。この際、全部身についてくれはしないことを覚悟で全てのエラーを修正しちゃうっていう手もあるけれど、それをやっちゃあ結局効果なしってことは先の研究例が証明済み。
仮に文法修正で学習者が何かを学んだとしても、それはpseudo learningであると著者は続ける。psuedolearningであれば、それには価値がない。表面的なteaching/learningでしかない。その一方で、文法修正を通して得た知識がpseudolearning的なものであったとしても、それはeditingには役立つかも。かなり限定的なものではあるけれども。
さらに、プラクティカルな問題がある。「効果的に文法修正をする」ためには、いくつもの条件が満たされなくてはいけないが、それは無理! たとえば・・・エラー修正をするにあたり、教師はエラーを見つけなくてはいけないが、全ての教師が全てのエラーを発見できるわけではない。ノンネイティブなら当然。仮にエラーを見つけられたとしても、なぜそれが文法的に正しくないのかをきちんと説明するのが難しい。なぜなら、文法規則は「きちんと」したものではないから。学習者も教師の説明が理解できないかもしれないし、理解できても教師のコメントに従わないかもしれない。100歩譲って、「何点かに焦点を絞った文法修正」ってのは、まぁいいかもしれないし、今のところ、これが効果をあげているという研究も多い(p352)。でも、これにも著者は難癖をつけている。selective FBが学習者の発達段階に合ったものでなくてはならないし、教師が常にconsistentであることも難しい。著者は「普通の教師にはそんなことできない」的なコメントもしている。
p. 354からは、今度は「文法修正は効果がないだけではなくて、harmfulである」ことの理由が述べられている。文法修正は学習者にとってunpleasantでストレスになる。修正されるのを避けるために、回避したり短くしたりなども行われるだろう。「学習者は修正を期待している」とよく言われるが、これは正しい。教師が文法修正に効用があると信じるのと同じように、学習者もその効用を信じているがゆえに「修正して欲しい」とは思っているのだ。思ってはいるけれど、やっぱり修正されると、それはunpleasantなわけで、従いたくないわけだ。変な心理。さらに、時間の問題は大きい。学習者にとっても、教師にとっても、修正を読んだり書いたりするのにかける時間は莫大なもので、これをもっと他にproductiveなものに使った方がいいんじゃない?と著者は述べる。学習者が「修正して欲しい」と言うなら、「修正しても意味ない」ことをちゃんと説明した方がよい。
結論:文法修正をするな。では、教師はライティングのクラスで一体何をすればいいのか?→文法修正以外のこと!(なんじゃ、そりゃ・・・)

感想:うーーん。文法修正、どうなんだろう。これだけ否定されると、「しない方がいいかも」と思わなくはないけれど、学習者が期待しているというのは事実だし、個人的体験に基づくとやはり「誤りを修正される」ことが伸びることにつながる気がするのだけれど。この「気がする」というのがintuitiveで根拠が無い、と著者は言っているのだけれども。ちょっとエラー修正関係の論文を読み漁ろうかと思う。

論文

夏休み中にやることリスト、やっと後半に入り、もう間に合わないけど論文に手をつけようかという気になってきた。で、この間の関東甲信越英語教育学会で買ってきた紀要などに目を通しはじめたら・・・。あらら、忘れている!専門用語とか、統計手法とか、M生時代には理解できていたことが、あれ、なんだっけ?ってな感じになってしまっていて、愕然。こんなに簡単に抜けていってしまうものなわけ???(焦)
気を取り直して、データのお掃除を始めるけれど、これまた去年取ったデータなので、当時の状況を忘れていたりして、かなり・・・ヤバイ。

ENGLISHあいうえお

ENGLISHあいうえお―これができれば英語は通じる

ENGLISHあいうえお―これができれば英語は通じる

 静哲人先生の本。さすがに目の付け所がちがうというか、面白い。そういわれてみれば、こういう発音矯正本は非常に少ないよね。r,l,th,f,vの音しか扱っていないのが残念。もっと多くの発音を取り扱って欲しいと思う。それから、この発音だけができればいいわけでは決してなく、もっと全体的な訓練ももちろん必要であることは言うまでもないことなんだけれど、その辺の記述が皆無ということもちょっとひっかかる。サブタイトルが「これができれば英語は通じる」だもん。編集者が勝手につけたタイトルかもしれないけれど、ちがうでしょ!と言いたくなる。まぁ、発音訓練のとっかかりとしては、非常にいい本であり、メソッド的には画期的で興味深い。ちなみに図書館で借りました。

ENGLISHあいうえお

久々の更新・・・。すみません・・・。
大学の講義が始まると、その準備やら何やらで研究どころではなくなり・・・。やっと夏休みに入ったものの、成績処理や舞い込んだテキスト制作、夏期講座でやはりバタバタとし・・・。これから後期準備して、それでも余裕があれば、ライティング研究をしていきたいと思います。

Encouraging self-monitoring in writing by Chinese students. ELTJ, 58, 238-246.
生徒による自分の作文へのself-monitoringの有用性はCharles(1990)で立証されているが、EFL学生にとってはどうなのか? RQ①学生がself-monitoringができるように訓練することは可能か? ②作文におけるself-monitoring の効果は? ③self-monitoringに対する学生のattitudeは?
実験:中国人のEFL大学生、実験郡29人、統制郡29人。プレテスト・ポストテストデザインで、ライティングとライティングタスクをみて、質問紙とインタビューも実施した。12週間の学期の間、4つのエッセイを書いた。実験郡の学生は、トリートメントの間、自分のdraftにannotations(書いている間に、疑問点を書き出す)を書いた。self-mの訓練としては、80分×2コマがあてられた。
結果:学生のannotationは、文法形式だけではなく、構成・中身にまで関与するものを含んでおり、学生はちゃんとself-mできていた。学生はどんな点にどの様に疑問をもっているか、ちゃんと表現できていた。プレテスト・ポストテストのライティングは、分析的に2人のレイターに評価された。プレテストの結果、両群に差はなく、また、両群の学生は能力別に3段階に分けられた(上・中・下)。ポストテストの結果を見ると、実験郡と統制郡の間では、得点に関して有意差はなかったものの、得点の中身を細かくみてみると、organizationに関するスコアのみ、実験郡の方が有意に高かった。能力別に見てみると、上級グループのみ、実験郡の方が有意にスコアが高かった(総得点およびorganization, contentにおいて)。
考察:質問紙とインタビューによると、多くの学生は、self-mはrevisionとライティング能力の向上に役立ったと認識していた。その理由として学生が挙げたものは、①学生のannotationを教師が読むことにより、教師は学生がどんな点を困難に感じているか、どこができないかを認識し、学生が必要としているfeedbackを学生に与えることができる。②annotationを書く過程でcritically, analyticallyに自分の作文を読み直し、仮説をたててannotationでそれをテストすることができる。
しかしながら、実験郡のうち、有意にスコアが高かったのは上級グループのみだった。その理由は、①中・下級グループは、もっぱら形式に関するannotationをしていた。上級者は、contentに関するannotationの割合が高かった。②中・下級グループのannotationは一般的過ぎるものが多かった。また、彼らはannotationをすることに意味を見出せず、真面目に取り組んでいなかった。
結論:学生をself-mのためにとレーンニングすることは可能だし、学生は概してself-tが有用だと考えているようだった。self-mはorganizationを向上させるのに有用で、特に上級学習者には適している。

Charles, 1990, Responding to problems in written English using a student self-monitoring technique. ELTJ, 44/4, 286-93.

Comparing Teacher and Student Responses to Written Work. TESOL Q.28, 181-187.
ピアFBと教師によるFBを比較。RQは、ピアFBは、教師のコメントの質と同レベルのものなのか?教師と生徒のコメントの違いは何か?その違いを産む要因は?(EFLの学生のエッセイ28点が対象)
結果:RQ1に関して。ピアFBの89%はvalidなコメントだった。60%は教師が与えなかったコメント(でvalidなもの)を与えていた。bad adviceは6%のみだった。しかしながら、生徒のコメントはvalidであっても、教師のコメントをsubstituteするものではなかった。教師のコメントはたった20%しかカバーされていなかった。RQ2に関して。教師のコメントは作文全体に関わるgeneralなものが多かったが、生徒のコメントは個々のアイテムに関するspecificなものが多かった。(教師は、生徒に考えてもらうために、generalなコメントにしていた) フォーカスとしては、両者とも内容よりは形式にかんするコメントが多かったが、この傾向は教師の方が強かった。
結論:教師のコメントとピアのコメントは、complementaryなものだったといえる。また、教師と生徒が同じ点に関して、同じコメントをしても、そのコメントの仕方が異なっているので、それらは書き手にとって違う角度からのコメントをもらうことになり、よいことではないか。ピアFBは十分に有用である。